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藍染めと私 3

こんにちは、ヴィオルカです。

藍染めとヴィオルカ小川との出会いをお伝えしているブログも3回目になりました。

19世紀末にチェコでもジャポニスムを実践した画家がおり、日本の美術工芸品が収集されていました。そのことを調べている途中で、発見したこと、それは、ズデンカ・ブラウネロヴァーという画家についてでした。

ズデンカ・ブラウネロヴァー(1858-1934)

19世紀のチェコとパリの文化交流について調べれば、必ず彼女の名前の挙がってくる重要な人物です。これまで彼女を主人公にした小説や評伝が、チェコでは何冊も出版されています。

ブラウネロヴァーが、日本美術に興味を持っていたことは、当時の彼女の交友関係を見ればあきらかでした。プラハの政治家の4人娘の末っ子として生まれた彼女は、フランスの文学者エレミール・ブールジュと結婚した姉を頼って、パリで画塾に通いながら、絵の研さんを積みました。

当時彼女が交友を結んだ人々の中には、ホイッスラー、ルドン、ロダン、クローデルといったジャポニスム作品を残している芸術家たちがいます。そして義兄が、ゴンクール賞(現在も続くフランスの文学賞)を受賞していることもあり、「歌麿」「北斎」というモノグラフを残したゴンクール兄弟とも交流がありました。

これはブラウネロヴァーの残した歌麿の作品「鮑取り」の模写です

着物を着たブラウネロヴァー

また、彼女は、多くのチェコとフランスを結ぶ文化催事の開催にかかわっていました。特に1902年にプラハで行われたフランスの彫刻家、オーギュスト・ロダンの展覧会は、チェコの芸術家たちに大きなインパクトを与えたことで重要なものです。

その時、ブラウネロヴァーは、アルフォンス・ミュシャとともに、ロダンをモラヴィアに招待し、彼にモラヴィア、特にスロヴァーツコの民族芸術を紹介しているのです。

モラヴィアの民族芸術の中でも、特に民族衣装の美しさは、ブラウネロヴァーの紹介により、フランスでは大きな話題となっていました。

後半生のブラウネロヴァーは、プラハから離れ、ロストキという小さな村に居を移し、蔵書票などの小さな版画や本の挿絵を制作し、またチェコの民族芸術に傾倒してゆきます。

一方、私は、いつも使っていたトラムの停留所のそばにある仕立て屋さんのショーウインドウに、見覚えのあるような気のする、紺地に可憐な花模様の生地を発見します。この生地に、かすかに日本やアジアの雰囲気を感じ取ったのですが、どうしてそんなふうに感じたのかわかったのは、もっと後になってからのことでした。そしてそれが、チェコのフォークロアの重要な遺産であることを知るのにも、もう少し時間がかかりました。

つづく

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