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ミュシャの最高傑作《スラヴ叙事詩》 ついに来日!(その7)

こんにちは、チェコの伝統藍染めヴィオルカです。

今週はみなさんお花見を楽しまれているようですね。こんな時こそ、展覧会に行きましょう。展覧会場は、人が集中しないで、比較的ゆったりしていますよ。ヴィオルカは、金曜日、竹橋の近代美術館で「茶碗の中の宇宙」展を見た後、お堀の桜をちらっと楽しみました。

今日は、《スラヴ叙事詩》を描く前のミュシャに焦点を当ててみたいと思います。パリで一夜にして売れっ子デザイナーになった時にも、ミュシャ自身は、スラヴ民族の一員であるということを忘れたことはありませんでした。

若きミュシャの風貌にもそのことが表れています。ミュシャの息子イジーが、父親若かりし頃の姿をこんなふうに書き留めています。

明るいとび色の髪にキラキラと光る目、短く刈り込んだ顎ひげをたくわえ、そしてヴィドホフからもらった赤いルパシカをいつも着ていた。ロシア人とは違って、ルパシカをズボンの中にたくし込み、ベルトの代わりに幅広のサッシュをしていた。

ルパシカは詰襟の紳士用シャツで、もとはロシアの民族衣装です。ミュシャはデザイン違いのルパシカを何枚か持っていたようで、これを身に着けた姿が彼のイメージのひとつとなっていました。そのイメージは、遠く日本にまで届いていました。フランスの雑誌『ラ・プリュム』に掲載されたルパシカを着たミュシャ像が、雑誌『明星』に掲載されています(「仏国装飾画の大家 ムッカ氏」『明星』(1904年4月号)目次によれば、石井寅治作)。

原画はルパシカをミュシャにくれたヴィドホフによるものです。

Portrait charge d'Alfons Mucha (1860-1939) par David Ossipovitch Widhopff (1867-1933)

Date1897

SourceLa Plume, 1 July 1897, Bibliothèque nationale de France commons.wikimedia

また、こんなこともありました。ミュシャの出自について、当時興味本位に憶測した記事がいろいろ書かれていましたが、そのなかでも、ミュシャのことを、サラがヨーロッパ・ツアーに出かけた時に見つけ出したハンガリー人だとしたものは、長い間流布していました。ミュシャは、サラに頼み、この間違った「伝説」に反論してもらったこともあります。

ミュシャがスラヴ民族であるという自覚を強く持っていたということは、このようなエピソードからもうかがえますし、そのような自覚がミュシャの制作を支えていました。

今日は、このへんで。続きをお楽しみに。

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