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藍染めと私 2

こんにちは、ヴィオルカです。

先週に引き続き、私とチェコの藍染めの出会いを、お話しします。

今は、まったくの観光地となったプラハの旧市街広場も、私の住んでいた2000年前後頃は、チェコ風のホットドックを食べさせる簡素な店などもあり、まだまだチェコの市民生活とつながっている感じがありました。

私がヴォイチェフ・プレイシクという画家の版画作品を見たのは、その旧市街広場の「フランツ・カフカ・ギャラリー」というカフェも併設したこじんまりとしたギャラリーでした。

私はまず、そこで見た版画の、構図の面白さと豊かな抒情性に惹きつけられました。版画を見て、とても懐かしい気持がしたのです。しばらく眺めているうちに、そこには日本の浮世絵版画と同じ構図の原理があることに気づきました。はじめて見る作品なのに、モティーフはヨーロッパのものなのに、どこか懐かしく感じる不思議な感じでした。

プレイシクの「雪のハラチャニ」という作品と広重の「東海道五十三次 蒲原 雪の夜」という作品を比べてみてください。まず、プレイシクは、画面左から突き出した木の幹と、遠景のかすむプラハ城で遠近を表現しています。

さらに、風景の中に雪という自然現象を書きこむことで、抒情性をたくみに演出しています。しんしんと降る雪の中、家々のしっかりと閉じられた窓からは、光も漏れ出てこない。画面中央には、四羽の四十雀が身を寄せてじっとしている。画面は茶の濃淡のみであらわされ、すべては吸い込まれるような静謐の中にある。

こうした自然現象の抒情的なとらえ方というものは、日本人の感性に長く培われてきたものでしょう。決してドラマチックではない、日常的な、ありきたりな風景の中に題材を求めるということは、浮世絵の風景画の精神とも共通しています。

展覧会を見た後、すぐに作家について調べてみると、プレイシクはアルフォンス・ミュシャのパリのアトリエで働き、1902年まで、パリで様々な版画技法について学んだことがわかりました。そして、すぐにプレイシクはジャポニスムを実践したチェコの画家のひとりにちがいないと思ったのです。

「ジャポニスム」という現象があります。これは一般に、19世紀後半、フランスを中心としたヨーロッパ各国で絵画、建築、ファッション、デザイン、文学など芸術のすべての分野において、日本美術が西欧に与えた影響をさすとされています。1989年に、パリのオルセー美術館と東京の国立西洋美術館の協力で行われた「ジャポニスム展」で多くの人が知る研究分野になりました。

しかし、当時、チェコでは、ジャポニスムについて調べている人は、ほとんどいませんでした。まだ、ジャポニスムが研究分野としても、あまり認められていなかったのです。チェコにおける日本美術の受容は、どのようなものだったのか。思い立つとまっしぐらの私は、すぐに図書館通いをはじめ、美術史の教授、日本学者の先生、美術館や博物館のキュレーターの方から、様々な助言や情報を得て、日本の美術品はチェコへどのように流入したのか、そして美術への影響について調べ始め、その成果は、日本に帰国後、修士論文という形でまとめることができました。その後、チェコの大学でも、ジャポニスムについて論文を書く学生も出てきたと聞きますし、昨年には、プラハのナショナル・ギャラリーで「チェコのジャポニスム」という展覧会が開催されました。

論文用の資料収集の際、美術館や資料館などで、一次資料にあたる機会も多数ありました。資料を探しているうちに、私は、おもしろいことに気づきます。

19世紀の後半、チェコで日本の美術品を収集した人は、思いのほか多く、そのなかには、チェコの民族芸術にとても深くかかわった人もいたのです。その組み合わせの面白さが次に私をとらえました。

つづく

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