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吉村晴子さんとの出会い

3月20日、春分の日、一度は途絶えた「紅板締め」技法の復元に取り組まれた吉村晴子さんにやっとお会いし、お話を聞く機会を得ました。

一昨年、軽井沢でお会いした私の尊敬する大先輩が、群馬県高崎市に吉村晴子さんという方がいらっしゃって、途絶えていた技法を復元し、紅絹(もみ)を染めることに成功されていらっしゃるから、一度訪ねてごらんなさいと教えてくださってから、いつかきっとと心待ちにしていたことでした。

板締めという技法は、正倉院の宝物にも使われたものでたいへん古く、版木や型紙をつかい、生地に防染剤をのせて色を染め出す方法とは異なり、文様が刻み込んである版木で生地をきつく挟み、そこに染料を直接掛けまわし、生地の色を染め分けるというものです。紅板締めの中心地は京都で、そこで特権的に染められていたものでしたが、明治維新後、絹の取引が盛んだった高崎で唯一、吉村染工場がこの技法を取り入れたとのこと。浮世絵を眺めていると、美人絵の女性の着物の襟もとや裾からちらりとつややかな赤い色が見えることがありますが、その赤い色の襦袢や胴裏(どうら)、そして格式の高い着物に対でつくられた間着(あいだぎ)といって、襦袢の上に着けるものに使われた薄絹、紅絹(もみ)を染めた技法です。

吉村家に残された版木で染められた紅絹

吉村さんのお話をお聞きして、とても心を揺り動かされたのは、京都で使われていた大量の版木が佐倉の国立歴史民族博物館に収蔵されたものの、博物館では途絶えてしまった技法の復元には取り組まないと決定したことから、自分で復元を試みようと決めたということです。祖父が高崎で唯一の紅板締めをする工場の四代目で、版木を含む資料がたくさん残っていたとはいえ、復元にこぎつけるのはとても大変なことだったそうです。

でも、チェコの藍染めの紹介を日本ではじめてみようと考えた私には、自分がどうしてもやらなければならないのだという強い気持ちに突き動かされたことが、とてもよく理解できました。私もチェコの藍染めに魅せられ、プラハの国立博物館の収蔵庫で、版木を見せてもらったり、図書館で藍染め関係の資料を読みながら、資料の保存は、博物館がしているし、学芸員によって、研究も続けられている。そして技術をもつ職人は本当に数人になってしまっているけれど、工房では技法の伝承も行われている。この技術の保存のために、今、私にできることは、とにかくたくさんの人がチェコの藍染めに興味を持ってくれるように、そしてたくさんの人が使ってくれるようにすることだ!と考えました。吉村さんの気持ちとは、大きさの違いはあると思いますが、日本での紹介を始めた時の私の気持ちときっと同じだったに違いないと思ったのです。

また、高崎近郊で製造が盛んだった薄絹が、輸出用のものとはまったく違う製糸方法で製造されていたというお話も、大変貴重でした。明治政府は、様々な日本の製品の輸出を試み、たとえば陶磁器などは、絵付けや器形を欧米向けに変えていましたが、絹糸にも同じことがあったということは、お聞きしないとわからないことでした。輸出用の糸は、空気を含まないように製糸し、つるつるとした質感を出すのに対し、紅絹に使われた絹糸は、空気を含ませた糸で、手繰りしたもの。だから薄く、柔らかく、少しだけざらざらとした手触りですが、重ね着する際は、身体と着物の間に適当な空気の層ができ、暖かく過ごせるのです。そしてそういった薄絹が高崎近郊では盛んに製造され、京都に運ばれ、当時の人々の生活に浸透していました。

呉服屋さんが、着物の裏絹として、こうした薄絹を紅白にして、お年始にお得意様に配り、顧客は、呉服屋さんで表地を選び、新しい着物をあつらえるという商習慣があったということもはじめて聞いたものでした。

はじめてお会いした吉村さんに、会った人を包み込むようなやさしさを感じました。大変な仕事をたくさんの人の協力を得ながらやり遂げられたのも、こうしたお人柄を慕う人が多かったからに違いないと思いました。

吉村さんからは、板締めの藍染めについて知っておくようにと宿題を出されました。私は、群馬近郊の製糸、織物についてもいろいろお話をおうかがいしたいなと思っています。

今回の出会いは、高崎和文化継承実行委員会の方々のおかげでした。群馬の山菜や新鮮なお野菜を使ったお料理、とてもおいしかったです。また、呈茶席でいただいたお茶も美味でした。ありがとうございました。

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